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枚方宿

願生坊(順興寺)
 地域デザイン研究会で始めた「地域遺伝子を活用したまちづくり」の手始めに、枚方宿とその周辺、及び百済寺跡公園に行ってきました。暑い盛りの7月17日。
 写真は、倉ノ谷願生坊です。文献(「ひらかた散歩」 編集上田義三 枚方新聞社 昭和54年6月1日)によりますと、
--蓮如の子実従が永禄2年(1559年)に開基、枚方での一向宗の本拠地であった。石山本願寺の系統で周辺は寺内町を形成していた。永禄11年(1568年)織田信長は京に入り、天下統一の布告を出した。石山本願寺はこれを拒否、順興寺もそれに呼応している。元亀元年(1570年)織田信長の大軍が来襲し、順興寺の伽藍を焼き尽くした。宗門の掟はきびしいが、実従の子顕従は、決死の信徒を説得し降伏の道を選んだ。以後信長により、石山本願寺攻めに組み入れられるが、顕従たちは、鉄砲に弾を込めず、矢はやじりを抜き、刀槍は刀をつぶして従軍し、一人の本願寺勢をも傷つけなかった。--
 とされています。
 現在の願生坊は、この地に再建されたものです。  TKAM
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枚方城

 秀吉の時代になり、今の枚方小学校のあたりに、枚方城が築かれました。ここは、大阪平野と丹波・山城の山々を一望におさめる景勝の地であるとともに、軍事上の要衝となるところでした。城主は、秀吉に属する本多内膳正政康。秀吉は本多氏の娘乙御前を愛し、天正13年(1585年)に御茶屋御前をいとなみ、乙御前を住まわせたたといわれています。
 しかし、元和元年(1615年)大坂城の落城とともに本多氏が滅び、廃城の運命をたどりました。
 時代に翻弄され続けた枚方といえるのではないでしょうか。
参考文献:「枚方宿の今昔」 宿場町枚方を考える会 平成9年3月30日
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